1582年

明智光秀公の墓

「本能寺の変」

天正10年6月2日(1582年)の早朝に

織田信長の家臣であった

明智光秀が

突如謀反を起こし本能寺を襲撃。

 

天下統一を目前に織田信長は本能寺で自害。

なぜ光秀が信長に謀反を起こしたのか。

、、日本の歴史の謎とされ

探せば多くのエピソードが残っています。

様々な動機は検証されていますが

決定的なものはなく今も分からないみたいです。

 

、、、本能寺の変の報を聞き

羽柴秀吉が

備中高松城から中国大返しを敢行し

主君である織田信長の仇討ちをするため

僅か10日後には明智光秀と激突します。

山崎の戦いと呼ばれるこの戦で

明智光秀は敗れ、京都伏見にある小栗栖と呼ばれるところで

竹槍で刺され死んだといわれます。

 

が、実は死んだのは

明智光秀の影武者と呼ばれる

荒木山城守行信という武将だったらしい。

 

生き延びた明智光秀はここ

岐阜の山県市美山町で

荒深小五郎と名を変えて住んでいたらしい、、、、、。

 

明智光秀といえば、山崎の合戦では死なず

生き延びて、徳川家康の側近として

黒衣の宰相と呼ばれ、江戸幕府の政策に関わった

南光坊天海になったといわれる噂もありますけれども、、、

 

そしてあまり有名でもない

明智光秀の生存説として

 

この荒深小五郎は

1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが始まる際

東軍である家康に味方になるために

出陣するも根尾村と呼ばれる薮川において

洪水に流され溺れ死んだそうです。

 

かりに明智光秀が

荒深小五郎として名を変え

この地で過ごしたとしても

秀吉の栄華の時代にこっそりと

約18年間の長い時間のなか

この片田舎の片隅で庵を囲み

関ヶ原の合戦が始まるまで、、

 

彼はこのあいだ、なにを思い巡らしていたんでしょうか、、、

 

また、関ヶ原の戦に意気揚々と出陣したけれども

結局その前に溺死してしまった

明智光秀の人生とは、、

謎の多い人物として

まあ、荒深小五郎のエピソードは無いでしょうけれども

来年の大河ドラマ楽しみにしていよ、、、

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