1637年

本多上野介正純公 父子之墓碑

秋田県横手市

横手城の近くに ひっそりとある

ふたつのお墓、、、

人気はない、、、

徳川幕府の黎明期、、初代将軍

家康公の懐刀として

活躍した武将

本多正純と

その息子のお墓がはるか東北の地に

今も残っています、、、。

 

三河の小さな土豪から

始まったという少年時代から

織田家や今川家の人質となり

 

華やかならずその苦難の道を

歩んでいく

徳川家康が天下を獲り得るまで、、

 

彼には

強烈な忠誠心を持ち

主君には命を惜しまない

頑強な三河武士たちが

家臣としていたといわれますが

 

そのなかで

家康の鷹匠として仕え

一時期は家康のもとを離れ

流浪の生活を

送っていた本多正信。

 

再び徳川家に帰参してからは

その家康の側近として

德川家

繁栄の礎を築いていき

彼の息子であった

本多正純も

家康に重用され頭角を表す、、

 

あの大坂の陣が始まる前に

有名な

どこかのお寺の

ある鐘に刻まれていたのは

 

家康の名前を家と康に分断させて

豊臣家がこれまでどおり

幸せになっていくようにと

これは徳川を呪う文言だと

 

もはやいちゃもんともいえる

言いがかりをつけ

豊臣家を

追い詰めようとする

作戦を練りいくさによる

豊臣家攻略のための

きっかけを

何とか作ろうとし

 

大阪冬の陣においては

あの有名な真田丸の攻防戦とか

有名ですが

徳川軍は大阪城に

大砲撃ち込んだりといろいろ

やったみたいですけれども

なかなか大阪城を落とせず

外交戦略に切り替え

 

その時

本多正純は

豊臣家との講和を(うわべだけ)図ろうと

豊臣家の使者、、、、

女性には甘く優しい言葉で騙しながら

男性には毒を持って制し

大阪城内では大混乱を招いたでしょうね、、

 

結局

難攻不落であった大阪城のお堀を埋め立て

お城を丸裸にしてしまえという

えげつない策を立案したという、、

 

そのいくさの最前線に立つよりも

むしろくらい部屋に閉じこもって

謀略を寝るようなイメージが強いけれど、、、

 

計略に長け

その才を認められた正純にはその

強大な権力を掌中におさめ

 

家康が大御所様と呼ばれ

二代目将軍を秀忠に譲ってからでも

秀忠を凌ぎ

大御所家康の権力を恃んで

将軍秀忠にも

意見を言えるほどの

権勢を誇ったといわれます。

、、、しかしその地位が

少しづつ揺らいでいくのは、、

 

秀忠は、、この

父の権力をかさにきて

将軍である自分に遠慮なく

物申すこの男、、、

気に入らなかったのかもしれない。

 

家康の後継ぎ問題のころ

正純は次の将軍には

秀忠ではなく兄である秀康を

推したと言われ

それはきっと、、

秀忠の耳にも入っていたであろう。

 

ついには正純の後ろ盾であった

大御所家康と

父である正信が死んだあと

 

将軍秀忠が

幕府の主導権を握ることとなり

本多正純に対しても

遠慮することは無くなり

 

秀忠の側近たちであった

土井利勝や

酒井忠世、、井上正就ら

、、、

これまでの怨みを晴らすべきがごとく

牙を剥き始め、、、

少しづつ正純失脚に向けて動き始めるという。

かつては本多正信、正純親子の政敵で

秀忠の家老

大久保忠隣が失脚させられたという

恨みも残り、、、

 

その大久保忠隣の息子

大久保忠常の妻の母親こそ、、、

 

以前、、、何度か紹介したあの

亀姫という女性、、、

 

家康の長女であり

将軍秀忠の姉であり

奥平信昌の妻である

加納御前。

 

その加納御前の正純に対する

怨みは相当であったらしい。

 

本多正純は

1619年(元和5年)

あの豊臣家の遺臣であった

福島正則を改易したのち

 

下野国小山藩5万3000石から

宇都宮藩15万5000石へと

その加増は跳ね上がるが

 

その時、宇都宮城主であった

奥平忠昌は下総古河藩へ、、、、

 

僅か7歳で藩主となったという

その奥平忠昌こそ

その加納御前の

可愛い孫、、、

 

加納御前から見れば

奥平家を足蹴にし

正純により孫は

宇都宮を追い出されたかたちとなり

 

しかも夫である加納藩 奥平信昌よりも

正純の所領は多かったという、、

多くの怨みを買いながら、、、

あの宇都宮城において

釣り天井で正純が

将軍秀忠を殺す計画を立てていると

いう噂もたてられたり、、、

 

しかし、、全然どうでもいいですが

釣り天井?というお菓子が

どうも

宇都宮にはあるそうです、、、

、、すごいな

いつか行ってみよう、、、餃子も一緒に、、

 

 

ところで、、、

1622年(元和8年)

出羽山形最上氏が

お家騒動により改易、、、

 

最上義光が亡くなってから僅か8年しか

経っていない、、、。

これまで、、初代山形藩藩主になるまで

義光が戦い抜き

その未来へと引き継いでいったなかで

それは、、果たして何だったんだろうか、、

 

それはともかく、、

その最上家の城であった

山形城を受け取るべく

派遣されたのは本多正純、、、

それを追っかけてきた幕府の使者がふたり。

 

正純を糾弾するべく

11か条にも渡って

将軍秀忠暗殺などの

罪状嫌疑をかけられたというが、、

 

またその嫌疑は追加され

なかには正純に弁明できない内容も

あったらしい。

そのあと、罪を着せられ

幕府の命により

正純は宇都宮15万5000石から

出羽由利55000石へと移封、、、、

 

謀反などに身に覚えのない正純は

身の潔白を訴えこの移封の話を

頑なに断り、、、ついには

 

徳川秀忠はそれを聞いて

激怒したという。

 

そして正純は改易され

知行は僅か1000石、、、

佐竹藩預かりの身となり

この横手の地で最後を

迎えることとなる、、、。

 

この地に来た頃は、、優遇され

それなりに外出も出来て

佐竹藩のお殿様 義宣とも談笑したりしていたという。

 

ある時、正純が思い出話を誰かに語る、、、

 

あの関ヶ原の戦いにおいて

常陸の戦国大名であり

水戸に陣を張っていた

佐竹義宣は

西軍東軍どちらにもつかず、、

戦況を見ていたら、、

合戦が終わってしまったらしく

 

結局

そのどちらにもつかなかった罪?に着せられ

常陸54万石から

秋田20万石への減封となってしまったのは

 

正純自身の家康への進言によるものだったと言われ

その自分が今、佐竹藩のお世話になっている、、

 

なんとも皮肉なものであると

話をしていたらしいが

 

そのたわいない思い出ばなし、、、

 

それが、、、江戸城の耳に入り

なぜ貴様が今の立場でその話を

人に喋るのだと

 

正純は将軍秀忠の

逆鱗に触れる事となるという、、。

 

その後、、幕府の命により

正純の住んでいる屋敷には

柵が巡らされ堀を設けて

僅かな

ともしびのみ残して

ほぼ全ての扉に釘を打ち

陽は当らない住まい、、、

もはや

囚人のような扱いであったという。

 

想像を絶するほどの

憎しみをはるか江戸から受け、、、

この横手で

過酷ともいえる15年間を過ごし

彼はこのあいだ

その微かな光の中で何を考えていたのかは

分かりませんが

 

ともに配流された

息子正勝を

さきに病で亡くし

ついには

この地で最後を迎えたという、、、、。

 

、、権謀術数入り乱れる

伏魔殿の如き権力闘争は、、、、

 

このあとも

狭き江戸城内において

大奥も巻き込み

延々と繰り広げられていく、、、

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