1583年

賤ヶ岳古戦場

滋賀県長浜市にある

賤ヶ岳、、

かつてこのあたりで

織田信長亡きあとの

後継を巡り

織田家中の武将たちを巻き込んだ

天下分け目のいくさが行われる、、

天気がよくてよかった、、

その賤ヶ岳を登っていくリフトがあって

ぐんぐん進んでいき

賤ヶ岳山頂の近くに到着します。

 

南に見えるのは

広大な琵琶湖の景色、、、

山頂から北を眺めれば余呉湖が見える、、、。

 

賤ヶ岳の合戦と呼ばれる

いくさにおいて

あの小さな余呉湖を

挟むように

大勢の人馬が行き交い

多くの砦が築かれたという。

この余呉湖、、、

いくさが終わったあと

あまりの死傷者により

湖が紅く染められたという伝承が残る、、、

 

織田家筆頭家老であった

柴田勝家。

 

北陸のあたりで上杉景勝軍を相手に

いくさに明け暮れていたころ

どえらい情報が入ってきた、、

 

1582年(天正10年)

6月2日、、、主君

織田信長が本能寺において斃れ

また、、

その信長に反旗を翻したのは

同僚である明智光秀だという。

 

一体なぜこんなことになったのか。

だが

それどころではない、、

 

主君の仇、、明智光秀を討つべく

勝家はいちど

本拠である北ノ庄城へ戻り

作戦を練るが

、、

しばらくするとまた

衝撃的な報告を受ける、、、

、、、まだきっと

いまごろ

いまの岡山県あたりで

毛利軍と対峙し

水攻めをしている最中の

羽柴秀吉が

備中高松城から一気に東へ翻し

本能寺の変から僅か10日ばかりで

京の山崎において

光秀を討ち取ったという情報が

耳に入った時の

勝家の心境とはいかに、、

 

 

その本能寺の変から山崎の合戦へと至って

僅か25日後、、、

6月27日には

尾張清洲城において

織田家の後継者をどうするのか

その信長、光秀の残していった

領地をどうしていくかと

 

柴田勝家

丹羽長秀

池田恒興

羽柴秀吉の4人で

会議が行われるけれども

 

誰がどうみても、、

勝家は秀吉に対し

光秀を討ち取ったという

負い目がある、、、、

 

その会議において主導権は秀吉に握られ

信長の孫である僅か3歳の三法師が

織田家の家督を相続し

その遺領分配において

柴田勝家は秀吉が生まれて初めて

城持ちとなった

思い出深き?長浜城を

奪い取り

IMG_1399

ここで、、所領である

加賀越前、、

北陸地方から琵琶湖までの

道筋を確保するが

 

秀吉は京都を押さえ

河内、山城、丹波を我がものとする、、

 

そしてこの清洲会議において、、

おそらく勝家は感じたであろう

何より許せなかったもの、、、

 

かの羽柴秀吉は、、、

織田家をないがしろにし

自ら天下を奪い取るべく

企んでいるのだ、、、

 

清洲会議から

織田家家中は

羽柴秀吉についていく者と

柴田勝家についていく者

真っ二つに分かれていく、、

 

互いにひっそりと

味方を増やしていき

ときにうわっつらの和睦を結びながら、、、

 

その年の秋

柴田勝家が羽柴秀吉へ

和睦の使者として遣わしたのが

前田利家、、、

昔は秀吉とともに

貧乏長屋のようなところで

隣同士、、

夫婦揃って

同じ釜の飯を食べたような仲だったというが

 

利家は勝家の使者として

秀吉のもとに行くこととなり、、

 

この状況において

敵であり

百姓の小倅であった

羽柴秀吉のなにかに

利家は魅かれていったらしい、、、、

 

 

冬が近づき

勝家は

信長の三男、織田信孝や

織田家家臣であった滝川一益、、

鉄砲を得意とする傭兵集団雑賀衆や

はては四国にいる蝙蝠、、

長宗我部元親とも

よしみを通じていく、、、

 

12月に入り

秀吉はついに半年前

清洲会議において

柴田勝家に明け渡した

琵琶湖畔にある長浜城を攻撃する。

 

そのとき

長浜城主であったのは

柴田勝豊、、、、

かつて

福井県に今なお残る

丸岡城を築いたといわれ

勝家の甥で長浜城城主となってはいたが

 

勝豊はどうも身内ながら、、

勝家とうまが合わず

あの大谷吉継の調略もあったらしく

あっさりと長浜城を秀吉に渡し

羽柴軍に寝返っちゃたという。

 

そのとき柴田勝家は

どれほどのショックを受けたかは

分かりません、、、

だが

豪雪により北陸から動けない状況、、

 

秀吉はその隙を狙い

清洲会議ののち

織田信孝が後見人となり

岐阜城で擁していたという

3歳の三法師を、、、

岐阜城を攻め奪い取ってしまい

織田家後継の正統性を確立すべく

動いていく、、

 

信孝は羽柴軍に降伏し

秀吉は、、咳唾珠を成す様な動きのなか

1583年(天正11年)、、

年が明けて

伊勢、、、、

かつての織田軍団のひとりで

勝家と興亡をともにすると誓い合った

滝川一益が挙兵し

羽柴軍と対峙する、、、

 

かつての同僚は立ち上がるが

北陸において、、

雪に囲まれ何もできない

、、、歯がゆい思いをしていた

勝家、、、

ついに2月にはしびれを切らし

 

雪解け前に

近江に向けて出陣を決意します。

この賤ヶ岳のあたり、、

秀吉、勝家両軍が

お互い砦を築きあい

どちらも攻めあぐむ様な

状況となったらしい、、、

 

だが4月、、、

岐阜城にいた織田信孝が再び兵を挙げ、、

 

秀吉は

近江から柴田勝家

伊勢の滝川一益

美濃の織田信孝とか

多方面から攻め寄せられるなかで、、、、

秀吉はその岐阜城

織田信孝を

もう一度攻略すべく

美濃大垣に向かっていったという。

 

 

そして、、、

ようようと、、、

雪の中を進軍した柴田軍、、、

 

北国街道に沿って

累々と柴田軍、羽柴軍が

互いに築いている砦があり

お互い、、、

どう攻めればいいのか

戦線が膠着しているなか

柴田軍はある策を練る、、、

 

秀吉がここ近江を離れて美濃に向かっているあいだ

はたしてそれを好機とみた柴田軍、、、

 

、、そのとき

敵に気づかれないように

おそらく、、、

獣が通るような道すら

ないような山間を越えに越え

羽柴軍の

懐を掻くとか

胸元を突き刺すとかではなく

はらわたをえぐるような

奇襲作戦を決行、、、。

この賤ヶ岳と呼ばれる山の麓にあったという大岩山砦、、

 

羽柴軍に襲いかかっていくのは

鬼玄蕃と呼ばれた猛将

佐久間盛政、、、。

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