1600年

津屋城

関ヶ原の戦いのまえ、、、、

 

徳川家康は

会津征伐のために結成した軍勢を

 

小山の評定において

周到に根回しをしたという議事を進行させて

ついには、、

打倒石田三成の軍へと変貌させたといいます。

 

 

その石田三成は

家康の命令により

会津征伐に向かおうとする

西国の大名を大阪や近江で押さえ

 

ついには西軍の総大将として

毛利輝元が据えられ

 

薩摩 島津義弘や

土佐 長宗我部盛親らも

どんどん西軍に組み込まれ

 

大阪周辺の東軍勢力であった

丹後田辺城や京都伏見城を

逐次撃破していく、、、

 

 

岐阜県海津市にある

津屋城と呼ばれたお城の跡の近くにある、、、

この時期は

津屋川堤防沿いに

真っ赤な彼岸花が咲き誇ります。

 

石田三成は

その頃

岐阜城城主であった

織田信長の孫、、

織田秀信を味方につけた事で

 

美濃のあたりの小さな大名たちは

細やかに支配しているような状況のなかで

なし崩し的に

西軍に加担することとなったといいます。

 

そのあいだに徳川家康は

福島正則や池田輝政たちに

先鋒を任せ、、

35000人の

東軍先発隊は西へ向かいます。

 

1600年8月13日、、

先発隊は

その福島正則の我が城

清洲城に到着する。

 

そこはもはや木曽川や長良川を隔て

岐阜城や大垣城が目と鼻の先、、、

 

このお城から家康が到着するのを待つあいだに

東軍先発隊は

「福束城」

という今はもう遺構も残っていないらしい

小さなお城をターゲットにします。

 

小さくとも

揖斐川沿いにあるこのお城は

どうも水運の要所で大阪まで

繋がっていたという重要な場所だったらしい。

 

その福束城近くに領地を構え

東軍についていた大名たちは

西軍とのいくさにおいて

まさに最前線、、

 

えらいこっちゃと

西軍の拠点となっている

大垣城近くにある我が領地を

なんとか死守して

いかないとえらいことになる、、

 

 

その東軍先発隊は

清洲城から

池田輝政が率いていく

北上軍と

福島正則が率いて

美濃路をたどり

北西に向かいながら

二手に分かれ岐阜城攻略へ、、、

 

その前に

 

最前線において始まったのは

清洲城からほぼ西にあたる

南美濃といわれるあたり、、、

 

美濃の情勢がほとんど西軍に傾いているなか

福束城城主

丸毛兼利も西軍に味方したひとり、、、

 

福束城のほんの数キロ離れたような場所で

東軍についていたのは

松ノ木城城主 徳永寿昌と

、、、あのかつて

たしかキンタマを

織田信長への使者に

見せびらかし信長を爆笑させたという

今尾城城主 市橋長勝。

 

彼らはこの東西軍の境界線あたりに

城を構えており

 

福島正則の命令により

岐阜攻略戦に先立ち南美濃攻略を開始。

福束城へ進撃する、、、、

 

丸毛兼利、、、

徳永寿昌と市橋長勝

 

いわばご近所で

この小さな領主たちは

なんだかんだとこれまで

仲良くやっていたらしいけど

 

これも運命なのかどうかわかりませんが

東西に分かれた事で

福束城において戦いが繰り広げられる事となる、、、

 

徳永寿昌と市橋長勝は最初、丸毛兼利に説得を試みたらしい。

だが結局首を縦に振らない丸毛は籠城するも

あえなく敗北し大垣城へ逃走したという、、、

、、前置きが長くなりましたが

 

その福束城落城から

勢いに乗った

徳永市橋連合軍は

 

次に狙ったのは

福束城から徳永市橋連合軍の城を挟み

南にあった高須城。

 

このあたりは高木一族という

大名たちが城を持ち

西軍についていたらしいが

 

その高須城城主

高木盛兼も

福束城陥落の報を聞き

迫り来る東軍の勢いをみて

これはもう勝ち目がないと踏んだらしく

 

東軍、徳永寿昌が開城しろという使者に対し

城は明け渡すから

武士の面目を保つために

いくさのふりをしたいと言い出して

 

空鉄砲を撃ってもらい

一応戦いはしたという体でお願いしたいと

使者に伝え

高須城からの逃亡を図ったといいますが

 

結局、攻め寄せた東軍の兵たちは

約束?を破り

実弾射撃を行ったという。

 

高木盛兼は

面食らったらしいけれども

とりあえず逃亡、、、

 

そしてもうひとつ

高木一族の城であった

駒野城の城主である高木帯刀も

あっという間に包囲され、、

 

最後に残ったのは

この津屋城、、、

今はもう、、、お寺になっています。

その津屋城城主であった

高木正家、、、

彼は戦況を見極めながら

どう動くか考える、、、

、、

どころではなかった、、

その高須城を落とされ

 

盛兼たちが

あっという間にどんどん

津屋城に逃げ込んできちゃう状況、、、、、

もはや東軍の勢いは留まる事なく

この津屋城において一度は

抗戦を試みるが結局

盛兼も正家も大垣城に逃げ込んじゃったという、、、

 

このあと、、、関ヶ原の合戦が終わり

 

この津屋城は廃城となり

高須城城主であった盛兼はのちに

出雲松江藩 堀尾吉晴の食客として

天寿を全うしたというが

津屋城城主の正家は

以後消息を断つ、、、、

 

どこかで自由な人生を送ったんだろうか、、、

 

それはともかく、、、

そのいくさで落とされた高須城のあたり、、

 

江戸時代においては

高須藩となり、、、

幕末において

あの有名な会津藩最後の

お殿様がこの高須藩で誕生したといいます。

 

しかし、、、

城を守るというのは大変、、、、

、、、

我が家も35年のローン、、、、

果たして守れるんでしょうか、、、、

 

どうでもいいや、、寝よ、、

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