1584年

三七松の遺跡

あの

岐阜県羽島市にあるコストコの近くにあるこの

だだっ広い畑のなかにポツンとあるのは、、、

 

ずっと昔から、、、

おそらく畏敬の対象として

昔は大きな松が生えていたといわれます。

三七松といい

 

枝を折れば生血が滲んできたり

その松に触れると奇病にかかってしまうといい伝えが残っていたという、、。

 

ある奥方の怨念と無念を宿した松、、、、

 

 

美濃斎藤家の有力な家臣として

有名な

西美濃三人衆

 

稲葉一鉄

氏家卜全

安藤守就

 

にもう一人

不破光治

を加え、美濃四人衆ともいわれたともいいます。

 

その美濃斎藤家が織田信長に攻められ

滅亡してからは

不破光治は

織田家に仕えることとなり、、

 

この時代、足利幕府はまだなんとか健在、、、

1568年(永禄11年)

13代将軍 足利義輝が暗殺されることで

将軍家の権威はもはや失墜し

その頃、まだお寺の坊主であった

義輝の弟の覚慶。

彼はこのままお寺にいるのなら、、、、と

いうことであればと

命までは奪われませんでしたが

 

覚慶はかつての足利家の栄華を取り戻すべく

寺を脱出する、、、だが、、、

 

覚慶、、、

還俗し足利義昭と呼ばれた

彼を

救ってくれる大名はおらず

近江六角家を頼ったり

越前朝倉家を頼るも

なかなか上手くいかず

足利家の復興にはまだまだ

先が見えないなかで

このころ

尾張統一を果たし

美濃攻めにおいて斎藤龍興を追い出し

ついに美濃を手中に収めた

織田信長。

 

彼が義昭に手を差し伸べることとなります、、、。

 

不破光治は

その義昭を美濃へ迎える外交官のひとりとして名を残します。

その後も信長の命により

数々のいくさに参戦したといいます。

 

信長の信頼も厚かったみたいで

 

1576年(天正4年)

あの柴田勝家が北陸方面の軍司令官に

任命されたときには

前田利家

佐々成政

とともに勝家の与力であり目付として

府中三人衆の一人として活動します。

 

その不破光治、、、

彼には息子がふたりいて

(、、いや多分もっといたかもしれませんけど、、)

 

ひとりは彦三と呼ばれた

不破直光。

彼は父、光治が死んだのち

後継として

府中三人衆を引き継いだという。

 

そして本能寺の変ののち、、

 

彼は柴田勝家率いる

賤ヶ岳の戦いにおいて

佐久間盛政軍に属し

秀吉軍相手に奮戦する、、、

 

しかし

このいくさの途中で

柴田軍についていたけれど、、、

途中で

戦線離脱してしまったといわれる

前田利家、、、

 

のちに彼の家臣となったという。

 

 

その不破直光の弟であり

不破光治のもう一人の息子である

不破広綱。

(友綱とも呼ぶみたいですが、、

まあ、、そのへんは、、、よくわかりません)

 

源六と呼ばれた彼が

IMG_1858

岐阜県羽島の

竹鼻城の城主であったころ、、、、

 

羽柴秀吉は

ちょうど賤ヶ岳の戦いで

柴田勝家に勝利し

天下の実権を握りつつある、、

 

だがそれを阻止しようと

織田信長の次男信雄と

徳川家康が手を組み

1584年(天正12年)

小牧長久手の戦いが始まります。

だが、長久手合戦において大敗を喫した秀吉軍は

作戦を立て直し伊勢長島にいる

織田信雄を脅かし、家康を誘い出そうとします、、、。

 

その

竹鼻城の城内において、、

 

不破源六は

秀吉とも仲が良かったといわれており

信雄軍につくか

秀吉軍につくか

大評定を行った結果、、

信雄軍に付くことを決めたという。

 

すると、、、秀吉軍は突貫工事を行い

一気に竹鼻城の周りに堤防を築いてしまい

水攻めを決行。

 

堤に囲まれた城のまわりは

どんどん水かさが増えていったといいます。

源六は信雄軍、家康軍に援軍を要請したが、、

 

誰も来ない、、、、。

 

源六は妻の実父であった

八神城城主である

毛利広盛にも援軍を求めるが

毛利広盛は秀吉軍に属していたのか、、、、

 

娘婿のピンチを救うことが出来ず

援軍を断ってしまったという。

 

 

妻の実家からも助けは来ない、、、

 

武士の意地からか、、、、、

 

源六は妻と離縁し

実家へ戻すこととなります。

 

もはや竹鼻城の開城は目前、、、

水に囲まれた城の中では夫婦離縁の酒宴が始まるが

 

妻は、、、援軍を出せなかった故郷の父のことを思い恨んでか、、、

小刻みに震え、堪え忍んでいる姿がそこにあったといいます、、、

 

離縁され、、その実家である八神城へ戻される途中

彼女は

「一度他家へ嫁いだこの身、今更どうして実家に帰れようか」

と自らの命を絶ったといわれます、、、。

彼女の傍に付き添っていた

家臣の三七、、、

この地に彼女を埋葬し

墓標として

一本の若松を植えたという、、、。

その松は、大正時代に枯れてしまったというが、、、

いまもなお、、、

梅雨の季節の

黄昏時に行ったためか、、、、

 

、、、なにか近寄りがたい

雰囲気を感じます、、。

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