1898年

児玉源太郎 後藤新平 銅像

 

はるか海を越えて、、、

 

台湾の首都 台北にある

国立台湾博物館。

 

ここに二人の

日本人の銅像があります。

児玉源太郎と

後藤新平。

 

 

日清戦争の勝利ののち

もともと清国の支配下にあった

小さな島は、、、

日本が勝利してから割譲され

ここから50年間

日本の領土となり、、、

 

その島はまだ、未開の地として

発展するどころか

なんの産業もなく

人々の暮らしもまだ

荒れていたという、、、。

 

この島を統治するためやってきた

このふたりが台湾という国を

近代化に導いていく、、、

 

 

その少しまえ、、、、、

日清戦争に勝利し

意気揚々と母国日本に凱旋した

20万人以上の

日本軍の兵士たちは

すぐに日本の土を踏むことが

できなかったらしい。

 

児玉源太郎と後藤新平を中心とし

 

外国から持ち込んできたんではないかと

疑われる兵士たちに

 

コレラ菌とか

日本に持ち込まないよう

 

検疫所を作り

一刻も早く家族に会いたい兵士たちを

強制的に検査する。

 

皇室出身の偉い将校だろうが

自分達よりも階級が上のかたも、、、

 

こんな下らないことで足止めするな早く故郷の地を踏ませろ

と刀を抜く将校だろうが

誰も特別扱いはせず

検疫を行なっていく、、、、。

 

 

1895年(明治28年)、、、

日本は台湾統治を始めたはいいけれども

まだまだ反抗勢力が残り治安も悪く

産業どころではない状況のなかで

3年が経ち、、、

 

児玉源太郎は

4代目 台湾総督に任命され

再び後藤新平を起用。

 

民生局長として抜擢し全てを託す。

 

いまや

日本の一部となった

台湾の発展に向け

港、鉄道、道路、上下水道のインフラ整備や

病院を作ったりして、この島を

近代国家へと導くこととなる、、、、。

 

このころはまだ台湾で

アヘン中毒者が17万人もいたらしく

これを強制的に抑えることなく

彼らはそのアヘンに税金をじわじわと、、かけていき、、、、

なんと50年かけて

アヘン中毒者を0人にしたらしい。

 

 

あの5000円札で有名な新渡戸稲造も

台湾に招聘したうえ

農業の発展や雇用機会の増大にも

寄与したといわれます。

 

ここはもともとふたりの名を冠した

博物館だったそうですが

 

第二次世界大戦において日本は敗れ

、、、

そのあと蒋介石率いる

中国国民党が台湾を統治する際には

 

誰がどうやって隠したのかは知らないが

半世紀に渡り、、、

 

このふたりの銅像は

こっそりと地下倉庫で保管されていたという。

 

そして再び眠りから覚めたのは2008年、、、

、、

しかし、、

日本ではなく外国で

、、、、

 

ふたりの日本人の銅像が並ぶ

光景は

、、なんとも

不思議な気持ちになります、、。

 

 

全然関係ないですけど、、

 

台湾に行った際

あの有名な

九份にも行ってきました。

しかし、、、

これはなんだ、、

人、、、多すぎじゃないか、、、

風情もクソもありません、、、、

 

最近の京都とかも

こんなイメージになっちゃって、、、、

 

だからなにというわけではないですが

賑やかな場所で、、、

なんだか寂しい気分になってしまいます、、、。

 

 

それはともかく、、、

後藤新平。

1857年(安政3年)に

仙台藩奥州水沢において誕生。

彼はあの有名な蘭学者

高野長英を大叔父にもち

政治家を志していたといいますが

医師として活躍し

なんと24歳で病院長!?に昇進したという。

 

あの板垣退助の自由民権運動、、

岐阜城の麓で

遊説中に暴漢に刺された

板垣の応急処置をしたのは彼らしい、、

 

のちに

満州鉄道の総裁や大学の学長や政治家を経て

 

大正時代に

関東大震災の直後、、

その復興計画を立案することとなります。

そして児玉源太郎。

黒船来航の前年に

長州、徳山藩において娘しかいなかった

児玉家の長男として誕生。

家族は大喜びしたそうです。

が、政治活動に盛んであった父は藩内で疎まれた挙句亡くなり、、

跡を継いだ義理の兄も殺され児玉家は家名断絶。

 

僅か13歳の源太郎は殺された義理の兄の亡骸を

黙々と片付けたそうです、、、。

 

その後の源太郎は

かなり生活は苦しかったそうですが

17歳には新政府軍として

藩の部隊において小隊長を任ぜられ

箱館戦争で初陣を果たし

軍人としての道を歩み

西南戦争をはじめとする

旧士族の反乱鎮圧にも参加。

軍の中でも期待を寄せられます。

 

そして台湾総督時代において

彼は日本の内務大臣を兼務しているとき、、

 

ついに強国ロシアとの開戦が

避けられないものとなる、、、

 

対ロシア戦において

その作戦参謀で「今信玄」と呼ばれた

田村恰与造が肺炎により急死。

 

ロシア戦の作戦を指揮を誰がするんだと

いうなかで

、、、

児玉源太郎、、、

彼は内務大臣という立場であったが

参謀次長という

二階級降格人事を受け入れ

自ら

国家の大事を引き受けたといいます。

 

日本陸軍の歴史の中でも

この降格人事はいまもって

空前絶後だという、、、。

 

そして彼はここから、、、

 

日露戦争において

母国、日本を守るべく

 

自らの命を

少しづつ削っていくような

八面六臂の活躍が

始まることとなる、、、、、、

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