1556年

道三塚

守護大名 土岐頼芸を

美濃から追放した斎藤道三。

美濃一国を我がものにしたはいいが

 

これまで、、、

かつての主君を殺したり、賄賂を使ったり

陰謀詭計の限りを尽くした男は、、

あまりにもやり方がえげつなかった事で

家臣たちの心を掴むことができなかったみたいで、、、

 

また、民衆に対しても

えらい残酷な仕打ち、、、、

小さな罪を犯した者が

牛裂きの刑にされたり

釜茹での刑を執行した際も

その罪人の妻や子供など身内に

火を焚かせて煮殺したりしたらしい、、、

 

そして長男である斎藤義龍、、、

母は深芳野と呼ばれ、かつて土岐頼芸の

お妾であったが道三に譲られてから

間も無く、、、義龍が誕生したという。

 

また、主君頼芸を追い出したはいいが

土岐家譜代の家臣たちも

美濃には大勢残っており

恐らく、道三に恨みを持っているであろう

彼らを抑えるため

息子である義龍が

実は土岐家の血を受け継いだ

頼芸の息子である噂を流したほうが

道三にとってもかえって都合がよかったという、、

「道三塚」

織田信長 信忠廟所や

関ヶ原における

岐阜城陥落時の

血天井がある

崇福寺というお寺の

近くにあり

周りは住宅街、、

かつては、、、

こんな感じ、、、

 

以前は違う場所に塚があったそうですが

長良川の氾濫により

幾度も流されてしまうため

江戸時代に

この場所に移されたといいます。

、、、しかも

終戦頃まで

畏敬の対象として

誰も近寄らなかったらしく、、、

 

竹藪に囲まれており

藪を切るとたたられるという

噂があったらしい、、、。

1554年(天文23年)

義龍は28歳で父、道三の跡を継いだといいます。

彼は父の期待に応えようと

土岐氏旧臣とも円滑に

コミュニケーションを図り

人望を集めていったという。

 

だが、それに反し

隠居した道三は

義龍を無能、愚か者と評して嫌い

次男である孫四郎と三男喜平次を

寵愛したらしい。

しかも長男を差し置いて

三男は官位を与えられ、、

しまいには

二人の弟たちは驕り高ぶり兄義龍を

ないがしろに扱ったといいます。

 

このころの義龍の気持ちとはいかがなものか、、、

想像すると、なんだか胸が痛みます、、、、

 

しかし、、ついに義龍は動き出す、、、

1555年(弘治元年)

義龍は病と称して二人の弟を呼び寄せ

酒を飲ましたうえ、殺してしまったという。

これを聞いた道三は

肝を潰すほど仰天。

すぐに軍勢を集め稲葉城の城下町を焼き払い

長良川を超え大桑城まで逃れることとなる。

翌年、道三は挙兵し長良川において息子と激突。

しかし、これまでの行いからか

道三に従うものは僅か、、、

約2000人の道三軍に対し

義龍軍は17000人と圧倒的な兵力の差、、、

 

尾張では道三の婿である織田信長が

道三を救うため、援軍を出すも結局間に合わず。

結局道三は討ち取られ

その死に際には

息子の戦いぶりを褒めたという。

、、果たして

後悔も、、

あったのかどうか、、、

戦後、、、義龍は

家臣が討ち取り

彼の前に差し出されたであろう

 

鼻を削がれた父親の首を

どんな思いで見たんだろうか、、、、、、

しかし、、、

元号ももうすぐ変わるのに、、、、

なんでこんな後味の悪い記事を書いてしまったんだろ、、、、

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