1864年

所郁太郎 銅像


医者として

志士として

ここ、美濃赤坂で生まれた男は

幕末の混乱期において

尊皇思想の大義を抱き

かの長州藩、高杉晋作の参謀として、、

この石碑のそばにあるのは

1861年(文久元年)

ときの孝明天皇の妹である和宮が

降嫁することとなり

江戸にいる14代将軍

徳川家茂のもとへ、、

和宮の行列が

中山道を通り、途中

和宮はここ赤坂本陣で泊まられたそうです。

またこの時のお行列、、

総勢3万人以上

なんと50キロ!

にも及ぶ

前代未聞の大行列だったといいます。

(どうでもいいけどトイレとか途中行きたくなった時とか

みなさんどうしてたんだろう、、、急に腹痛くなったりとか、、、)

この本陣跡のそばには公園があり

「美濃浪人」と呼ばれた

所郁太郎の銅像が建っています。

幕末期、、、

福沢諭吉や

大村益次郎

橋本左内など

数多くの人材を輩出したという

蘭学の私塾

「適塾」

大阪において緒方洪庵が開いたというこの塾に

所郁太郎も入門し

西洋医学を学び

 

そのあと、京において医者として開業し

近所に長州藩邸があり、、長州藩士と

関わることが多かったといいます。

 

そしてあの桂小五郎、のちの木戸孝允に見出され

京都藩邸医院総督として

長州藩に召し抱えられたという。

また、ときの長州藩藩主である

毛利敬親にもお目見えが叶い

かなり将来にも期待をされていたようです。

、、その長州藩において

ペリー率いる黒船来航から

外国人を追い出せと

攘夷活動に参加したという

長州藩士 井上聞多。

 

高杉晋作らとともに

外国公使の襲撃計画や

江戸のイギリス公使館の焼き討ちにも

参加したこの過激な(恐ろしい)

攘夷志士は

長州ファイブの一人として

幕府に内緒でロンドンへ留学、、、

(しかし、こんな時代によく行ったな、、、)

 

井上聞多は

西欧をその目で見た時

衝撃を受け

日本との国力差を

痛感し

開国すべきと

考えを改めたといいます。

 

そして長州藩の

無謀とも言える下関での

外国船砲撃事件を聞き

これからどえらいことになると

同僚である

伊藤俊輔(のちの伊藤博文)

とともに急遽日本へ戻り

長州藩の重臣達に

攘夷はとりやめるように説いたといいます。

しまいには殿様にも訴えましたが

誰も聞き入れてくれなかったらしい、、、

 

このころの長州藩、、、

八月十八日の政変と呼ばれ

長州藩はこれまで朝廷に大きな影響力を持ち

尊皇攘夷により倒幕を目論むも

会津藩、薩摩藩の陰謀により

突如京都から追い出され

 

そのあと

じゃあ京を火で燃やし、どさくさに紛れて

天皇を長州へ連れ去ろうと

企んだ計画は

新選組の襲撃によって

頓挫することとなり、、

 

京都を追い出された長州藩は

再度、軍勢をもって

京都に攻めのぼったが

これも会津藩、薩摩藩に挟み撃ちにされ惨敗、、

今度はついに17隻の

イギリス アメリカ オランダ フランス

四カ国連合艦隊が

長州に押し寄せることとなる、、、

(これはすごい、、、)

大敗北を喫した長州藩。

結局、高杉晋作や伊藤俊輔とともに

講和の使者となる、、、。

朝敵となった長州藩はもはや窮地に陥っており

さらに追い打ちをかけるように

幕府による長州征討の命が朝廷から下されます。

ひたすら幕府に謝罪しひたすら恭順するべきだという考えと

表向きは謝罪するがその間に軍備を整え再起を図るべきだという考え

藩内で意見がぶつかったという。

結局殿様や藩の重役に

武備恭順の主張を押し通した正義派のひとり

井上聞多。

 

しかし

幕府に徹底して恭順すべきだと訴え

保守的な考えを持った

俗論派の怒りは頂点に。

 

1864年(元治元年)

9月25日、、、

井上聞多は山口の街から

自宅へ帰る途中

闇の中で

何者かに滅多斬りにされたという。

一瞬の出来事、、、、

切り刻まれた聞多は

血と泥にまみれ近くの農夫に担がれ

瀕死の状態で自宅へ運ばれる、、、

すぐに医者二人が駆けつけたらしいが

手の施しようもなく

医者も呆然としていたらしい。

聞多は意識も朦朧としているなか

その場にいた兄に

自分の介錯を頼んだという。

兄は涙ながらに頷き、ひとおもいに聞多を死なせてやろうと

刀を抜く、、、

しかし

側にいた聞多の母親は

血まみれの聞多の身体を抱きしめて

このまま死ぬよりも治療の甲斐なくとも

出来る限りの手を尽くして欲しいと懇願し

兄は、、刀を納める、、

 

、、だが

手の尽くしようもない状況で

聞多は虫の息、、、、、

 

その時、駆けつけた医者こそ

所郁太郎。

 

彼はまともな治療道具も

持ち合わせていないなかで

焼酎で血だらけの傷を洗い

なんと畳針で傷口を縫い始める、、

呆然としていた二人の医師も郁太郎を輔け

4時間かけて

50針に及ぶ縫合手術が行われたといいます。

母の慈愛の力もあってか、、

一命を取り留めたという井上聞多。

のちに井上馨と名を改め

明治政府に仕え数々の大臣を歴任。

実業家としても活躍し79歳まで天寿を全うします。

 

のちに一万円札の顔となる←まだですが

明治近代化に貢献し

私利を捨て信念に生きた大実業家と呼ばれる

渋沢栄一。

井上馨と深い関わりを持つこととなるようです。

そしてこの手術において

奇跡を起こす

所郁太郎。

、、この半年後

功山寺挙兵と呼ばれる

高杉晋作たちの起こすクーデターの最中

はるか長州の地で

病に侵され

27年という若さで没したという、、、。

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