1578年

大溝城 

琵琶湖畔に残る

かの明智光秀が設計(縄張り)したという城のあとです。

近づけば、巨大な石垣が残っており

 

雪が積もったなかでたどり着いたはいいけれど

登れませんでした、、(崩れそうだからか?)

 

この城の城主であった

織田信澄

 

彼は織田信長の甥として

 

信長にとっては弟であり

信澄にとっては父である

織田信行が2度の裏切りを重ねた末に

清洲城で信長により謀殺されてからも

甥である信澄は信長に仕え幾多の戦にも出陣し

どんどん出世していきます。

この叔父と甥の関係、、、

お互いどんなもんだったんでしょうね、、

 

まあでも信行が殺されたとき、信澄は幼な子で

物心つかない年齢の中だったこともあったし

信長にはかなり気にいられていたみたいです。

 

また信澄は信長の勧め?により

明智光秀の娘と結婚したそうですが

 

のちにこの結婚が

信澄の運命を決定づける事となるとは

誰が想像していたんでしょうか、、、

ちょっと気になったのでもうひとつ

 

戦国の時代を過ぎ

 

江戸時代に

 

たしか教科書で習った?気がする

松平定信の行った

「寛政の改革」の時代に

現れる幕臣

 

近藤重蔵という男

彼は子供の頃から神童と呼ばれたそうです。

なんと17歳!?で塾を開き

探検家として

日本人にとってはまだ未開の地である

北海道を調査したといわれる

なんとも逞しい人物。

また彼は「大塩平八郎の乱」で有名な

大塩平八郎と会い

お互いに畳の上では死ねない人という印象を抱いたという

エピソードもあります。

しかし

近藤重蔵の息子、近藤富蔵はもともと素行が悪いので

有名だったそうですが

土地争いの中で富蔵は一家殺傷事件を起こし

八丈島へ流罪、、

 

もちろんそれまでの経緯はいろいろあったんでしょうが

武士にあるまじき罪なき女子供を殺した事で

この罪により

父である重蔵は大溝藩分部家お預けになって

彼はこの地で最期を迎えたそうです。

 

息子の富蔵は八丈島で

宇喜多秀家の子孫と一緒になり

八丈島に関する百科事典とも呼べる

本を書いたそうです。

 

今も昔も

あんま変わらないような事件があるっていうのは

なんなんでしょうね?

 

全然関係ないですが

いつも大河ドラマは第1話は必ず見るようにしています。

(大体途中で飽きちゃうけど、、、)

今日始まった「いだてん」

肋木って体育館の隅にあったやつですよね、、

懐かしい、、、、

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