1567年

織田信長居館跡 千畳敷遺跡

岐阜城金華山の麓にある

織田信長の居館跡。

今も

多分発掘調査が行われているようで、、

かのポルトガル宣教師

戦国時代に日本でイエスズ会の宣教をしたルイスフロイスが

これほど美しい宮殿を見たことがないと絶賛したと言われる

居館の跡、、

しかしこのルイスフロイスという方も

よくこんな荒れ狂った時代に

はるばる海外から日本にきたなあ、、おっかない、、

千畳敷と呼ばれた地で

造られた壮麗な4階建ての信長の宮殿の跡は

斜面を利用し池の跡とかも判明し

徐々に庭園としても造られた遺構の発見もまだまだこれから

明らかになっていくようです。

その織田信長が

悲願であった稲葉山城を攻略したのは

永禄10年(1567年)34歳のとき、、

23歳のときに義父である斎藤道三が息子の斎藤義龍に敗れてから

はや根気のいる時間、、しかし彼は

森部の戦いやら十六条の戦いなど

なんども美濃侵攻を試みるも失敗。

 

斎藤義龍の息子で後継である龍興、、

信長が何度も侵攻してくる最中に

父義龍が死に、14歳で家督を継いだはいいですが

評判良くなく、また凡庸な方だったそうで

永禄7年(1564年)に部下である竹中半兵衛と安藤守就らに

居城である稲葉山城を乗っ取られたり、、、

斎藤龍興の家臣は少しづつ彼のもとを離れていきます、、

信長も信長で調略を怠らず、東美濃や中濃地方など

織田家の勢力圏を広げ

斎藤家に対する包囲網が徐々に出来上がってきます。

 

、、、そして永禄10年、8月1日に

これまで斎藤家についていた

西美濃の国衆

あの美濃三人衆と呼ばれる

稲葉一鉄

氏家卜全

安藤守就

が信長の味方になると申し入れたそうです。

その為彼らは斎藤家裏切りの保証として

人質を受け取って欲しいと信長に伝え

信長は了承し人質を受け取りに西美濃へ部下を派遣。

、、、そこから信長は電光石火の行動に出ます。

部下が西美濃に人質を受け取りに行き

まだ到着もしていないのに

即座に軍勢を出し稲葉山城のある

稲葉山に連なる瑞龍寺山に駆け上がり

斎藤龍興が

おいおい何事だ何かあったのかと言っているあいだに

信長は
稲葉山城下町へ火を放ち稲葉山城は一気に丸裸。

その直後、信長は

鹿垣と言われた

木か土か石でかわからんですけど直ぐに土木工事を行って

即座に稲葉山城を囲んでしまいます。

疾風の如く

稲葉山城に攻め込む信長。

仰天したのは稲葉山城にいた
斎藤龍興だけではないでしょう、、、

 

、、織田家に味方しますと人質を渡す準備をしていた

美濃三人衆は包囲した稲葉山城に駆けつけてから

この状況に驚き、信長に改めて味方になりますと

挨拶したそうです。

なんだか、、バツが悪いと言うわけではないですが

 

信長のこの迅速な動きや

チャンスと見れば直ぐ行動しようとする思考とか、、

見習いたいですけど、、なかなか見習えないというか、凄いですよね、、、

、、そして、稲葉山城は陥落。

当主であった斎藤龍興は長良川を下り伊勢長島へ逃亡、、

まだ生きています。

ここから彼は打倒信長を目指すため這い上がろうとしていきます、、、

それはともかく

ようやく

織田信長は美濃平定を成し

この稲葉山城、そのへんの町の町名であった井口を

「岐阜」と改称。

「天下布武」と呼ばれるハンコを使い始めたのもこの頃、、、

まさか今頃、岐阜駅に黄金になった自分がいるとは

夢にも思わないでしょうね、、、

信長の野望

 

、、ここから彼は室町幕府将軍となる足利義昭を利用し

政権を牛耳っていこうと企んでいきます、、

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