1530年

川手城

かつての美濃守護大名、土岐氏の本拠地、、

革手城とも呼ばれた城の趾です。

 

土岐悪五郎の兄、土岐頼康が築城したとされ

昔はここ一帯が岐阜の中心地でかなり栄えたそうです。

応仁の乱の時には公家の人たちが京を追いやられ

土岐家を頼り集まり、ここらへんで都文化に花を咲かせ

賑やかだったようですが

1530年(享禄3年)

斎藤道三が稲葉山城に

拠点を移したことで廃城となったそうです。

 

のちに、徳川家康の命により、この城跡の廃材も

以前紹介した加納城の築城の為に使用したそうです。

 

 

10代目守護大名 土岐政房の次男として生まれた

土岐頼芸(呼び名がよりげい、ではないようでよりあきとかよりなりとかよりよしとかよくわかりません)

父政房は長男である頼武を差し置いて

頼芸を後継にしようとしたことで家督争いが勃発。

 

頼芸の片腕として、法蓮坊と呼ばれていたかつて僧侶であった男は

松波庄五郎と名を変え商人をしたりながら仕官をして

西村勘九郎という名で土岐氏小守護代の長井家に仕えながら

頼芸の信頼を得ていきます。

彼こそ、のちに斎藤道三と呼ばれた男の父親、、

 

現在は斎藤道三の国盗り物語は父子の二代に渡って行われたというのが

通説だそうで、、、、

 

 

1517年(永正14年)に

その家督争いで合戦となり頼芸は一度は敗れますが

翌年、再戦を挑み勝利ののち、兄頼武を追放。

また翌年に兄頼武が朝倉軍を後ろ盾に美濃守護を奪還、、

ようやく決着と思いきや

また何年かのちに弟の頼芸が再起を図りまた兄を越前国に追放し

美濃守護となったそうです。

そのあとも

越前朝倉氏や近江六角氏を巻き込みながら

兄頼武の息子、頼純と揉めたりしていましたが

1539年(天文8年)頃にはようやく争乱も終息し

ホッとしたのもつかの間、、、

頼芸が

これまで片腕として自分に尽くし彼が信じて疑わなかった

西村勘九郎、その息子も従順に頼芸に仕えていました。

名を斎藤利政。彼は

1541年(天文10年)突如

頼芸の弟を毒殺したそうです。

 

 

のちに、、、

マムシと呼ばれた男が権力を得るため、ついに牙を剥き始めます。

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